ヤクルトが9度目の優勝。1978年の初優勝を振り返る

2022年9月25日日曜日

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9月25日の神宮球場で行われた横浜DeNAベイスターズ戦、東京ヤクルトスワローズがサヨナラ勝ちをおさめ、球団史上2度目の2連覇、9回目の優勝を決めました。今回は1978年、悲願の球団初優勝をしたシーズン、そして優勝決定時の様子を紹介していきたいと思います。

広岡イズムのもと、初優勝へ

1977年から就任した広岡達郎監督は、「麻雀、花札、ゴルフの禁止」、「禁酒(練習休みの前日の食事時以外)」、「炭酸飲料の禁止」、「ユニフォーム姿では禁煙」、「練習中の私語禁止」など選手に厳しい制限を課し、チームを引き締まった雰囲気にすることに努めました。

また、先発ローテーションの確立を目指し、先発投手は中継ぎ起用をさせないこととしました。キャンプから守備や走塁の練習を重視し、この年加入したマニエルには守備練習を行わないと起用しないという厳しい対応をしました。

このような方針の転換に当初は選手からの反発はありましたが、この年は球団史上初のシーズン2位となりました。当時はシーズンオフにトレーニングをするという発想はありませんでしたが、シーズン終了後に専門家の指導の下ウエイトトレーニングを実施。基礎体力の向上を図りました。

また、アリゾナ州ユマでのキャンプを実施。これ以降他球団でも海外でキャンプをすることが増えるきっかけとなります。

1978年はユマキャンプで自ら視察し実力を判断してデーブ・ヒルトンを採用しました。8月末には前年7勝19敗と大きく負け越していた巨人に4.5ゲーム差をつけられましたが、直接対決で2勝1分と勝ち越し、9月19日~9月21日の中日戦で3試合連続のサヨナラ勝ちをするなど勢いに乗りました。

この年は最終的に松岡弘が16勝、鈴木康二朗が13勝、安田猛が15勝、井原慎一朗が10勝をあげ、野手陣ではヒルトン、若松勉、マニエル、大杉勝男の4人が規定打席に到達しての打率3割超え、マニエルは39本塁打、大杉は30本塁打と高い得点力を誇りました。

迎えた10月4日の中日戦。先発は苦しいときもチームを支え続けた松岡弘でした。優勝決定時のスタメンは以下の通りです。

(二)ヒルトン
(三)船田和英
(中)若松勉
(一)大杉勝男
(右)マニエル
(左)杉浦亨
(捕)大矢明彦
(游)水谷新太郎
(投)松岡弘

この日はヒルトン、杉浦亨、船田和英のホームランなどで9得点。「もし優勝の決定の時にマウンド上にいたらどんなにうれしいだろうなあ。しかしピッチャーはたった一人しか立てないんだから、自分にチャンスは回るかどうかわからない」と語っていた松岡。無失点のピッチングを続け9回もマウンドに上がりました。

大差でリードしていたこともあってスタンドにはすでに「国鉄スワローズ・サンケイアトムズ・ヤクルトスワローズ初優勝!29年間ご支援ありがとうございました」という横断幕が掲げられており、テープや紙吹雪が舞っていました。

井上弘昭のショートへの当たりを広岡監督に守備を絶賛されていた水谷新太郎が処理し、ワンアウトを取ります。ベテラン、木俣達彦に意地のヒットを許しますが次のバッター、首位打者経験もある谷沢健一をゴロに打ち取り、セカンド・ヒルトン、ショート・水谷、ファースト大杉でダブルプレーを完成させ、球団史上初の優勝を決めました。

スタンドからは喜ぶファンがグラウンドになだれ込み、広岡監督は14回も宙を舞いました。

掲示板には、「熱心ななにわ気質の声援に大きな刺激をうけました 阪神球団どうも有難う」、「セ・リーグの繁栄を今日まで導いてくれた伝統の巨人球団どうも有難う」、「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました中日球団どうも有難う」、「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激となりました広島球団どうも有難う」、「新球場進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました大洋球団どうも有難う」と、セ・リーグの5球団への感謝のメッセージが掲げられていました。

監督だけでなく選手もファンの手によって胴上げされ、神宮の宙を舞いました。

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